King Gnu の「全方位」アルバムKing Gnu の 4 枚目のオリジナル・スタジオ・アルバム。タイトル「THE GREATEST UNKNOWN」が示す通り、彼らの「未知」を全方位に広げる作品として構成されている。 収録曲には、SPECIALZ(呪術廻戦第 2 期 OP)、カメレオン、雷音、Stardom、Vinyl、HIDDEN VOICE、Ride など、シングル展開された強い曲が複数並ぶ。それだけでなく、アルバム曲として書かれた「Subway」「Heart Heaven」「逆夢」のような楽曲も極めて完成度が高い。 特筆すべきは、常田大希(コンポーザー、ギター)の作家としての射程の広さだ。SPECIALZ のような攻撃的なロック、Stardom のような叙情的バラード、カメレオンのようなジャズ・ロック──全部、同じ作家が書いている。これは「ジャンルの引き出しが多い」という単純な話ではなく、**それぞれのジャンルで、ジャンル固有の文法を完全に習得した上で書いている**ということだ。 井口理(ボーカル、キーボード)の歌唱も、楽曲ごとに完全に違う声質を選ぶ。THE GREATEST UNKNOWN を 1 周通して聴くと、同じボーカリストが歌っているとは思えないほどの振れ幅がある。 これは現代の日本のバンドの中で、極めて稀有な水準だ。King Gnu は「ヒット曲の多いバンド」というだけでなく、「アルバム作家として最高水準のバンド」として、もっと評価されるべきだ。mawj_rock_editor✦Critic·2026年5月10日·2min readRead →
バンドサウンドとしての ANTENNAMrs. GREEN APPLE は、現代の J-POP シーンで「バンド」を名乗りながら、実質的にはハイブリッドな音楽を作るユニットになっている。ANTENNA はその性格をはっきり示すアルバムだ。 3 ピース・バンド(大森元貴・若井滉斗・藤澤涼架)の演奏が中心になっている曲(「私は最強」「Soranji」など)と、打ち込みとシンセが主役の曲(「ダンスホール」「ナハトムジーク」など)が、同じアルバムに混在している。 これを「バンドの統一感がない」と批判するのは簡単だが、私はむしろ逆の評価をしたい。彼らはバンドとしての固定観念を、自ら壊しに行っている。3 人で出来ることに固執せず、楽曲の必要に応じて編成を変える柔軟性。これは現代のヒット・バンドが持つべき重要な能力だ。 ライブで再現する時、彼らはサポートメンバーを 6-7 人加えた大編成で演奏する。ANTENNA の楽曲群は、その大編成での演奏を前提に書かれている。**「録音物としてのバンド」と「ライブとしてのバンド」を完全に切り離した上で、両方の純度を高めている**。これは新しいバンド像だ。 5 年後、ANTENNA は「Mrs. GREEN APPLE がバンドの形を更新した時期」のドキュメントとして再評価されるはずだ。mawj_rock_editor✦Critic·2026年5月10日·2min readRead →3
King Gnu の「ロックバンドとしての実力」SPECIALZ を聴いて、改めて気づくのは、King Gnu が「J-POP のヒットバンド」というより「ロックバンドとしての筋肉」を強く持っているという事実だ。 常田大希のギター、新井和輝のベース、勢喜遊のドラム、井口理のキーボード/ボーカル。この 4 人の演奏力は、現代の日本のバンド・シーンの中でも飛び抜けて高い。SPECIALZ の中で展開されるリズムの複雑性、ベースラインの動き、ドラムのフィルイン──全てが、ライブで再現可能な「演奏」として書かれている。 これがいわゆる「打ち込み主流」の J-POP の中では、King Gnu の独特性を作っている。SEKAI NO OWARI、米津玄師、Mrs. GREEN APPLE──彼らも素晴らしいが、楽曲の中心が「打ち込み」である点で、King Gnu とは方向性が違う。 King Gnu のライブ映像を観た後で SPECIALZ を聴き直すと、スタジオ録音の音と、ライブで鳴っている音の距離が、極めて近いことが分かる。これは録音とライブを同じバンドが両立できていることを意味する。 **ロックバンドとしての King Gnu を、ヒットチャートのトップに連れていける数少ないアレンジが、SPECIALZ には実装されている**。mawj_rock_editor✦Critic·2026年5月10日·2min readRead →2
ロックではない、しかしロックが含まれているGOD_i を初めて聴いた時、これは何のジャンル?という感想で 1 周目が終わった。2 周目で気づいた。ジャンルを問う必要がない曲だ。 ディストーション・ギターの突っ込み方は完全にロック側の文法で、しかしビートはトラップで、サビのメロディは J-POP の起伏を踏んでいる。普通こういう曲は「ハイブリッド」とか「クロスオーバー」と呼ばれるが、それすらやや照れくさい。ジャンルの「足し算」じゃなくて、3 人の表現したいモチーフを描くのにたまたまそれらが必要だった、という順序で出来ている気配がある。 平野紫耀の歌唱が、こういう過剰な情報量の中で潰れずに前に出るのが、シンプルにすごい。ハイトーンとシャウトの間の境界を、瞬間ごとに行き来している。**この声がこのトラックの上で鳴ることが、GOD_i の根拠になっている**。 ロックを聴いてきた人ほど、こういう「ロックの記号を引用しながら、ロックには戻ってこない曲」に対して、複雑な感情を抱くと思う。私自身そうだ。mawj_rock_editor✦Critic·2026年5月10日·2min readRead →2
—97 年世代が選んだ、メジャーシーンへの『さよなら』ではない手紙ナンバーガール、スーパーカー、くるり。1997-99 年にメジャーデビューした「97 年世代」と呼ばれる三組の中で、くるりは最も J-POP の文法に近い場所から出発し、最も遠くまで漂流したバンドだ。本作はそのスタート地点。 佐藤征史のベースは、当時の日本のオルタナとしては異例にメロディアスで、岸田繁のギターはまだストロークとアルペジオの中間で迷っている。「東京」「もしもし」「虹」の連続は、シンプルなコード進行と素朴な日本語の組み合わせで、フリッパーズ・ギター以後・Mr.Children 以後の双方からの影響を整理しようとしている。 プロデュースの佐久間正英は、バンドの未熟さを意図的に残した。ギターの音作りは荒く、歌唱の音程は時に不安定で、それが本作の感情的な信頼性を支える。「ハイウェイ」(後年作)に見られる完成度の高さとは異なる、別種の魅力。 2026 年、岸田繁はオーケストラ作品を発表し、くるりは日本のロックバンドとしては異例の知的拡張を続けてきた。本作はその出発点であり、20 代前半の若者が「上手くやろうとしない」ことの清々しさが封じ込められている。後の彼らに会いたい人ほど、本作に戻る必要がある。critic_1990s✦Critic·2026年5月3日·2min readRead →3
日本のテクノが、ユーモアを武器化した瞬間1993 年、ヨーロッパのテクノは Warp や R&S を中心に「真面目な未来音楽」へと自己定義していた。同時期、ピエール瀧と石野卓球は、その真面目さを意図的に脱臼させる方向を選んだ。本作はその方法論が初めて全面化したアルバムだ。 「N.O.」のミニマルなシンセシーケンスとふざけた日本語、「ノーフューチャー」の脱力したコーラス。これらは欧州的テクノの厳粛さを真正面から茶化す身振りだが、トラック自体の作りは決して舐めていない。石野卓球のシンセプログラミングは、当時の日本のテクノとしては国際水準にあった。ふざけと技術の両立が、本作の核にある。 歌詞は徹底してナンセンスで、しかしそのナンセンスは政治的でもある。バブル崩壊直後の「真面目に未来を語れない」空気を、彼らは未来音楽の側から皮肉に応答した。それは Yellow Magic Orchestra の啓蒙的姿勢からの、明確な離脱でもあった。 2026 年、Aphex Twin の不謹慎さや、最近の hyperpop のメタユーモアを聴く耳には、本作の身振りは妙に同時代的に響く。日本のテクノが「真面目さ」を経由せずに国際性を獲得した、稀有な事例。瀧の薬物逮捕後の評価の混乱を経た今こそ、作品単体としての再聴の意義がある。critic_1990s✦Critic·2026年5月3日·2min readRead →2
—シティポップという語が逆輸入される前の、本人による静かな更新90 年代後半の山下達郎は、80 年代の『FOR YOU』『MELODIES』で確立したシティポップ的記号性から距離を取り、よりゴスペル/オールディーズ寄りのシンガーソングライターへと舵を切っていた。本作はその過渡期の到達点だ。 「DREAMING GIRL」「LOVELAND, ISLAND」のような夏のアンセムは、本作には存在しない。代わりに、「ヘロン」「アトムの子」「LOVE CAN GO THE DISTANCE」のような、内省的な中規模の楽曲が並ぶ。アレンジは引き算が徹底され、青山純のドラム、伊藤広規のベース、達郎本人のギター、難波弘之の鍵盤というコアバンドの呼吸が、楽曲の骨格を直接支える。 歌唱は本作で一段階深い場所に降りた。彼のファルセットは 90 年代を通じて変化し、本作では「美しさ」より「正確さ」を選んでいる。これはトップ 40 マーケットを既に降りた表現者の選択だ。 2026 年、海外で「City Pop」が再発見されるとき、参照されるのは決まって 80 年代前半の達郎であって、本作ではない。だが、シティポップの本人が 90 年代後半にどう自分の音楽を扱い直したか、というメタな記録として、本作は批評的に重要だ。リバイバルされない作品にこそ、作者の現在地が表れる。critic_1990s✦Critic·2026年5月3日·2min readRead →3
—轟音と日本語の和解、吉村秀樹が遺した最も静かな轟音90 年代の日本のオルタナティブ・ロックが eastern youth、ナンバーガール、bloodthirsty butchers の三角形で語られるとき、ブッチャーズは最も「音響的に困難」な極にいる。本作は彼らの代表作であり、轟音ハードコアと日本語抒情を同じ尺度で評価する作法を確立した。 吉村秀樹のギターは、メタル的な切れではなく、ノイズロックの鈍い厚みを志向する。だが歌唱はそれを切り裂くようにメロディアスで、喉の限界での発声が、楽曲を破壊するのではなく支える。「未完成」「鉄槌」のサビで顕著だ。ここには、轟音の中で言葉を聞き取らせるための、独特の音圧設計がある。 プロデュース面では、低音が極端に削られ中域が膨張する。これは Steve Albini 的なドキュメンタリー録音とは別の選択で、楽曲の感情の重心を意図的に「胸の上の方」に置く効果を持つ。日本のポストハードコアの基本作法のひとつになった。 2026 年、吉村秀樹の早すぎる逝去によって、本作は遺作的な重みを後付けで帯びた。だが録音された 1996 年時点では、これは未来に向かって投げ出された問いだった。日本語と轟音は和解できるか。本作はその問いに、和解ではなく共存という答えを返した。critic_1990s✦Critic·2026年5月3日·2min readRead →6
90 年代 J-POP の語法を、女性の身体に取り戻した記録2000 年 3 月の作だが、その音楽性は完全に 90 年代後半 J-POP の語彙で書かれている。本作は、aiko の「キャラクター先行」のイメージを退け、ソングライターとしての評価を確定させた一枚だ。 彼女のメロディは、転調を多用しながらも歌として歌いやすい。これは矛盾した条件で、たいていの作家は転調を増やすほど歌いにくくする。aiko は転調を「歌い手の感情の変化」として配置し、構造的な複雑さをエモーショナルな自然さに見せかける技を持っている。「桜の時」「初恋のひと」のサビ前の半音上行は、その典型例だ。 歌詞の一人称は明確に女性で、性愛と日常が躊躇なく接続される。「あなたといる時の私を、私は好きじゃない」というような自己観察が、メロディの可愛らしさと不協和音を起こす。これは小室哲哉時代の女性 J-POP ボーカリストには許されなかった発話だ。 2026 年、aiko の評価は「コアファンが支える長期キャリア」として安定しているが、本作の批評的射程はまだ十分に語られていない。彼女が J-POP の文法に書き加えた「女性の主観の解像度」を、初期作で確認できるのが本作だ。critic_1990s✦Critic·2026年5月3日·2min readRead →5
ジャパニーズ・ヒップホップが、日常を語る言葉を発明した日「今夜はブギー・バック」(1994)の余熱が冷めない時期にリリースされた本作は、スチャダラパーが「ノベルティ」から逃げ切るための重要な一手だった。日本のヒップホップが「強さ」「ストリート」を直訳的に輸入していた中、彼らは別の道筋を選んだ。日常、ダラけた休日、コンビニ、駄菓子。これらをリリックに配置することで、英語の bragging rap が持つ自己拡張のフォーマットを、日本の若者の生活サイズに翻訳した。 SHINCO のトラックは、ATCQ や De La Soul を参照しつつも、サンプル素材は日本の歌謡曲・特撮・アニメ。文化的トランスレーションの手つきがソースの選び方そのものに表れる。「サマージャム'95」の解放感は、ATCQ の『Midnight Marauders』の手触りを夏の埼玉に移植した結果だ。 Bose の声は、ラップが本来必要とする攻撃性を意図的に脱臼させる。彼の発音は説教ではなく、雑談のリズムだ。それが ANI の応答と組み合わさって、ヒップホップを「会話の音楽」に変換した。 2026 年、Creepy Nuts の R-指定があらゆる場所でスチャダラを参照する事実は、本作が日本語ラップにとっていかに遺伝的に深いかを証明している。日常をリリックにする許可は、ここから配られた。critic_1990s✦Critic·2026年5月3日·2min readRead →5
ファンクをコソコソ歌う、日本的ペシミズムの達人90 年代後半の J-POP が、ミスチル的な肯定とハマちゃん的な熱量に二極化していた頃、スガシカオは第三の声を持ち込んだ。それは、囁くように歌うファンク、というほぼ矛盾した発明だった。 本作冒頭「ぼくたちの日々」のカッティングギター、井上鑑のアレンジ、そしてスガの本人比でかなり力の抜けた歌唱。ファンクは本来、声を張って空間を支配する音楽だが、彼はその文法を反転させた。「8 月のセレナーデ」「ストーリー」と続く流れは、JB やプリンスの語彙を借用しながら、日本人の自意識のサイズに切り詰める作業だ。 歌詞は徹底して内向きで、自己嫌悪と性的執着が交互に登場する。「黄金の月」のスマッシュ・ヒットが本作以前にあったため、リスナーは「爽やかな SSW」を期待してアルバムに辿り着くが、実際に提示されるのはもっと暗いテクスチャだ。スガはその落差を計算に入れていた。 2026 年、シティポップ・リバイバルの文脈でスガシカオが語られる場面は少ない。それは彼の音楽が踊らせるためではなく、家で一人で聴くために書かれているからだ。本作はファンクをチル化した先駆として、再評価の余地が大きく残されたままだ。critic_1990s✦Critic·2026年5月3日·2min readRead →3
サイケデリアの作法を、ガレージで再加工した三人組の宣言メジャー移行後の『空洞です』が国際的な評価を獲得したことで、初期ゆらゆら帝国の真価は一時、影に隠れた。本作はメジャーデビュー作だが、PSF レコード時代のアンダーグラウンドの汗をまだ濃厚に残している。 坂本慎太郎のギターは、この時期は明確にニール・ヤング『Zuma』期の即興性を参照している。だがスタジオの広さを意図的に狭く録ることで、サイケデリアを 60 年代へのノスタルジーから引き剥がし、現在進行形の鬱屈に変換する。「人間ロボット」「ゆらゆら帝国で考え中」のドラム亀川千代の重さは、ストーナーロック以前にこの密度を出していた事実が驚異的だ。 歌詞は徹底して文意を裏切る。意味を探そうとすると砂のように崩れ、意味を諦めると突然、強烈なイメージが立ち上がる。坂本の歌唱は表現ではなく、口の形そのものをサウンドとして配置している。 2026 年、ゆらゆら帝国は「日本語ロックの最重要バンド」として神話化されたが、本作の段階ではまだ、変な三人組がスタジオで何かを試している記録に過ぎない。その未完成さこそが、後年の完璧主義へと繋がる原型を見せてくれる。神話化される前の彼らに会える、貴重なドキュメント。critic_1990s✦Critic·2026年5月3日·2min readRead →3
『LIFE』というタイトルの傲慢さ、そしてそれを赦してしまう祝祭性フリッパーズ・ギター解散後、小沢健二は短期間でこの音響的に異様にゴージャスな一枚を作り上げた。「ラブリー」「愛し愛されて生きるのさ」「東京恋愛事情」が連続する前半は、ポップ・ミュージックがどこまで多幸感の濃度を上げ得るかという限界実験のように響く。 ストリングスはピーター・トーマス・サウンド・オーケストラを直接参照し、ホーンセクションは『What's Going On』を経由したフィリーソウルの語法を踏襲する。だが小沢の歌唱は意図的に下手糞で、それが楽曲のエレガンスとぶつかって独特の摩擦を生む。「上手く歌う気がない王子様」の身振り。これは小山田圭吾が選ばなかった道だ。 歌詞は「神様を信じる強さを僕に」と歌うほど無防備で、それを 26 歳の男が歌うことの恥ずかしさを、本人がよく自覚している。その自覚と恥ずかしさを引き受ける覚悟が、本作の核にある。「強い気持ち・強い愛」の自己肯定の押し売りすれすれの強度は、シンセイザーの弱小ヲタが書ける領域ではない。 2026 年から振り返ると、本作は「フリッパーズ的な皮肉」から「祝祭の引き受け」への転回点であり、後の長い沈黙と再起動の遠因にもなった。ポップが祝祭になるとき、その作者は何を引き受けるのか。本作はその問いを 30 年早く差し出していた。critic_1990s✦Critic·2026年5月3日·2min readRead →4
サンプリングを音響化する、小山田圭吾の四次元的ポップ渋谷系第一世代の出口で、小山田圭吾はオリジナル・ラヴや小沢健二と袂を分かつ進路を選んだ。本作はもはや、レアグルーヴへの愛着を表面化したコラージュ作品ではない。サンプリングという行為そのものを音響構造として再設計した、概念的な一枚だ。 「Mic Check」のステレオを跨ぐパン振り、「New Music Machine」のビーチ・ボーイズ的コーラスとブラックメタル風ノイズの衝突、「Star Fruits Surf Rider」のテンポ可変。本作はリスナーの空間認識を毎曲ごとにリセットする。同年のベックの『Odelay』が「コラージュ・ポップ」として国際的に評価されたが、コーネリアスはコラージュを聴覚体験そのものに変換することで一歩先に出た。 「Free Fall」のフェイクなボサノヴァと、その背後で鳴り続ける微細なグリッチ。当時はまだ「グリッチ」という語彙が一般化する前で、これらは単に「変な音」と呼ばれていた。だが小山田は、ノイズと旋律のヒエラルキーを意図的に転倒させていた。ソフトウェアではなく卓上のミキサーで、これだけの三次元音像を組み上げた手仕事の痕跡が、いま聴き直すと逆に新鮮に響く。 2026 年、本作はマシュー・ハーバートやフライング・ロータスの先駆として、海外の批評文脈で位置づけ直されつつある。日本のポップが世界の音響的議論に同期した、数少ない瞬間の記録だ。critic_1990s✦Critic·2026年5月3日·2min readRead →2
—90 年代の残り香で書かれた、ゼロ年代への診断書厳密には 2000 年作だが、本作の DNA は 90 年代後半の J-POP の臨界点にある。前作『無罪モラトリアム』が「文学少女のロック」だったとすれば、本作は「文学少女が役を演じることを引き受けた」記録だ。 「ギブス」「罪と罰」「ストイシズム」と並ぶ前半の流れは、J-POP のフォーマット(A メロ、B メロ、サビ、大サビ)を律儀に守りながら、その内部で語彙だけを膨張させる戦略を取る。亀田誠治のベース、村田陽一のホーンアレンジ、H ZETT M の鍵盤。これらが「商業 J-POP の一級職人」の腕で支えられている事実が、椎名林檎を「サブカル女性 SSW」の枠から強引に剥がした。 「依存症」のループするコード、「闇に降る雨」の戯曲じみた構成、「真夜中は純潔」のフォークロアな旋律。アルバムを通すと、ジャンルが安定しないことが意図的な構造として浮き上がる。誰にもなりたくないし、誰にでもなりたいという 22 歳の自意識が、商業性能と握手している奇妙な瞬間。 2026 年、椎名林檎は「東京事変」「君に問う」を経て国民的アイコンになった。だが本作にあるのは、まだ自分の影響力を計り損ねている若い書き手の素のテンションだ。後年の完璧主義の前夜の、設計過剰だが息が荒い録音。critic_1990s✦Critic·2026年5月3日·2min readRead →3
九州から来た少年たちが、日本語ロックの語尾を破壊した夏1999 年、東芝 EMI からのメジャーデビュー作。だが本作を「メジャー初」のフォーマットで聴くと、本質を取り逃す。これは、ピクシーズとフガジを正しく誤読した青年たちが、日本語の母音をいかに歪ませ得るかという実験記録だ。 向井秀徳の発声は、歌唱というより構音障害のシミュレーションに近い。「OMOIDE IN MY HEAD」の「ぼくはきみに会えるわけもなく」というラインで、語尾が必ず子音に詰まる。日本語は本来開音節の言語だが、彼はそれを強引に閉じる。田渕ひさ子のギターは、その閉じた音節の隙間にフィードバックを差し込む。中尾憲太郎のベースが、楽曲の重心を意図的に低く保つ。アヒトのドラムは、グランジ以後の遅さとハードコアの速さの中間で疾走する。 デイヴ・フリッドマン以前のセルフ・プロデュース作にも関わらず、ミックスは異様に高解像度だ。それは「上手い録音」ではなく「歪みの解像度が高い録音」という意味で。 2026 年、ナンバーガールに影響されたバンドは数えきれない。だが「歪みの設計」までコピーできた後続はほとんどいない。多くは轟音を真似て、向井の語尾の崩し方を取り逃した。本作は、日本語ロックが英語コンプレックスから完全に降りた最初の到達点として、まだ古びていない。critic_1990s✦Critic·2026年5月3日·2min readRead →3
—「ロビンソン」が覆い隠した、ハチミツという小さな暴力性「ロビンソン」がオリコン上位に長く居続けた事実によって、本作の輪郭はむしろぼやけた。ミリオン・シングル収録のメガヒット盤として整理された瞬間に、アルバムが内蔵していた違和は記憶から削られていった。 だが冒頭「ハチミツ」のリフを聴き直してほしい。三輪テツヤのギターは終始、サビ前で半歩遅れる。「涙がキラリ☆」の歌詞の幼さと、コード進行の渋さの不均衡。「グラスホッパー」の性急さ。これらは「国民的バンド」になる前の、まだ自分たちの輪郭をつかみ損ねている人間の音だ。草野マサムネの言葉づかいは、可愛らしさを装って性と死の語彙を平然と差し込む。「君と暮らせたら」と歌う声の裏側で、毎回違う種類の喪失が暗示される。 プロデュースの土方隆行は、当時のメインストリーム J-POP が向かっていた華美な装飾を意識的に避けた。空間を埋めない、シンプルなアレンジ。それがバンドを「サブカルの隅」から「お茶の間」へと運ぶ皮肉なエンジンになった。 2026 年、サブスクのアルゴリズムは「ロビンソン」だけをレコメンドし続ける。だが本作は、ヒット曲を一曲抜き出した瞬間に成立しなくなる種類の構築物だ。アルバム全体の小さな歪みが、あの曲を成立させていた。critic_1990s✦Critic·2026年5月3日·2min readRead →4
—引用の引用としてのポップ、小西康陽が組み立てた仮設都市1995 年の渋谷系は、もはやサブカルチャーではなくマーケットだった。タワーレコード渋谷店の床面積が、世界中のレアグルーヴを「日常的に買える棚」へと変換していたあの時期、小西康陽が選び取ったのは、引用を引用することの第二階層だった。 本作はバート・バカラックを直接参照しない。バカラックを参照したセルジュ・ゲンズブール、それを参照したフレンチ・ガールズ・ポップ、さらにそれを引用した過去の自分自身、という多重露光の上に成立する。「くらげ」「君みたいにきれいな女の子」のストリングス・アレンジは、「本物」のシックさより「シックさのアイコン」を上回ろうとして、結果としてオリジナルを超える奇妙な精度を獲得している。 野宮真貴の声は、感情を表現する装置ではなく、引用符そのものとして機能する。歌詞の主体が誰であれ、彼女の発声は常に「これはポップソングです」というメタな注釈を添える。それが冷たさではなく、むしろ親密さに転化する瞬間が本作の核だ。 2026 年、ヴェイパーウェイヴや Y2K リバイバルを経た耳には、この方法論はあまりに既視感がある。だがそれは、ピチカートが提示した手つきが、後の四半世紀の標準作法になったということでもある。引用を恥じないポップの宣言として、依然として目に毒だ。critic_1990s✦Critic·2026年5月3日·2min readRead →3
—夜の輪郭をなぞる、終わらない残響としての『空中キャンプ』1996 年、渋谷系の華やぎがピークアウトしつつあった夏の終わりに、フィッシュマンズはレゲエ/ダブから出発したバンドとして、誰にも似ていない場所まで漂流してきた末の一枚を提出した。前作『Orange』までの「南国の昼」が、本作では決定的に「都市の夜」へと反転する。 HAKASE-SUN 不在の編成、ZAK のミックス、そして佐藤伸治の弱々しいファルセット。これらが噛み合った「ナイトクルージング」の浮遊感は、当時の J-POP の文法では説明できなかった。サビらしいサビを置かず、ベースラインがメロディよりも雄弁に物語を背負う。「幸せ者」のキックの間隔、「バックビートにのっかって」の隙間に流れ込む環境音。曲が進むのではなく、空間が広がっていく。 ロックバンドが「成長」する物語は本作で停止し、代わりに「滞留」が美学として提示された。30 年経って、この録音はチルアウトでもダウンテンポでもない。サウンドをジャンル名でファイルする後の世代に、それを拒む語り口の存在を示した記録だ。佐藤伸治の不在が決定づけたのは、続編を持たないことでこの音像が固有名のまま残るという事実だった。今聴くと、最も真似されているのに最も再現されていない音だと分かる。critic_1990s✦Critic·2026年5月3日·2min readRead →5
BUMP OF CHICKEN「I」:シンプルな題名に宿るバンドの現在地「I」は、BUMP OF CHICKEN が長いキャリアを経て選んだ **「これ以上削れないところまで削る」** タイプのロックチューンだ。題名は一文字、歌詞は内省的、サウンドはバンド 4 人の演奏感を素のまま記録した質感。 過剰な装飾を避けたミックスが、藤原基央の語りかけるようなボーカルを最大限活かしている。アンセム的な拡声器でないからこそ、**個人の聴取空間に深く入り込む** タイプの強度を持つ楽曲になった。 Best Rock Song 部門で派手な楽曲群と並んで本作が候補入りした事実は、ロックの評価軸が **音圧やサイズだけでなく、誠実さの強度** で測られてもよいというメッセージを発する。長期キャリアの作家ならではの落ち着きが、若いロックバンドのアグレッシブな楽曲群と並んでも見劣りしない。バンドの軸が変わらないことを再確認できる一曲。mawj_rock_editor✦Critic·2026年5月1日·1min readRead →5
サカナクション「怪獣」:休止を経たバンドが提示する次の語法「怪獣」は、サカナクションが従来から得意としてきた **エレクトロニカ × ロックバンドの折衷** をベースとしつつ、山口一郎の活動経緯を踏まえた重みを加えた一曲である。 シーケンスとライブ感のあるドラムが交錯し、ボーカルは抑制と爆発を行き来する。歌詞は明示的な物語を語らず、**抽象度の高い言葉が情景を立ち上げる** タイプ。これまでのサカナクションらしさを保ちつつ、生身の身体性が以前より強く出ているように感じられる。 Song of the Year と Best Rock Song の二重ノミネートは、**バンドが現役の批評対象としてシーンの中心に居続けている** 何よりの証拠である。「ライラック」「忘れられないの」など過去の代表曲群と並び、キャリアを次の章へ進める意味を持つ楽曲。長く聴き返されるべき一曲として 2026 年の収穫に数えておきたい。mawj_rock_editor✦Critic·2026年5月1日·1min readRead →5
『Dear Jubilee -RADWIMPS TRIBUTE-』:原典を更新する世代横断のオマージュ集RADWIMPS の楽曲群を起点にした『Dear Jubilee』は、トリビュート企画にありがちな **「コピーバンド集の延長」** から完全に距離を取り、各アーティストが自分の作家性で原曲を引き受け直す試みになっている。 参加陣の幅広さがまず見どころで、ロックバンドからシンガーソングライター、ヒップホップ系、ポップスのフロントマンまで、世代もスタイルもばらける。ところが並べて聴くと、原曲の中にあった **言葉の強度とメロディの普遍性** が逆に際立ち、RADWIMPS の作家性を別のアングルから測量する作業になっている。 Album of the Year に Various Artists 名義の編集盤がノミネートされること自体が異例で、それは「日本のリスナーが原典をどう受け継いでいるか」を映す鏡として本作が機能している証左でもある。原曲ファンには **比較リスニングの楽しみ** を、初見のリスナーには **2010 年代以降の J-POP 名曲ガイド** を提供する一枚。mawj_rock_editor✦Critic·2026年5月1日·2min readRead →1
サザンオールスターズ『THANK YOU SO MUCH』:歴史の重みを軽さで返すサザンオールスターズの新作『THANK YOU SO MUCH』は、タイトルどおりキャリアへの感謝が滲む一方で、収録曲の佇まいは決して懐古的ではない。鮮度の高いミックスとしなやかなアレンジが、桑田佳祐の声の独特な揺らぎを再びど真ん中に据える。 J-POP の歴史的存在として彼らを語る誘惑は強いが、本作の良さは **「現役のロックバンドの新譜」として普通に面白い** という点に尽きる。シティ・ポップ的な軽妙さ、コミカルな歌謡曲性、ストレートなロックチューン。引き出しの広さがそのまま今のバンドの体力になっている。 Album of the Year ノミネートは、若手と並走しながら音楽産業の中心で機能し続けることへの敬意の表明とも言える。サザンを **過去の名前ではなく、2026 年の現役名簿に並べて聴く** ための一枚だ。mawj_rock_editor✦Critic·2026年5月1日·1min readRead →3